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Fairchild 670とAnaloguetube AT-101

レコーディング・エンジニア 飯尾芳史


レコーディング史にその名を刻む伝説的アウトボード、「Fairchild (フェアチャイルド) 670」。非常に高価かつ、わずかな生産台数であったにもかかわらず、そのサウンドは様々なアーティストに愛され、今日に至ってもその魅力は色褪せることがありません。その貴重なモデルの一台を30年以上に渡り愛用し、その特性をもっともよく知るひとり、レコーディング・エンジニア 飯尾芳史氏に、自身が所有する「Fairchild 670」のこと、そして現代の精巧な再生産ユニットとなる「AT-101」について話を伺いました



──Fairchild 670をご自身で所有し始めたのはいつ頃ですか?

確か1986〜87年くらいに購入しました。当時所属していた「アルファレコード」のスタジオに1台あって、それを掘り下げていくことで「Fairchild 670」がビートルズやピンク・フロイドなどで使われているアウトボードであることを知りました。その頃はまだアナログテープレコーダーがあって、ドルビーAノイズリダクションがチャンネルの数だけ壁に並んでいる、いわゆる全部がアナログだった時代だったので「Fairchild 670」自体にもそれほどヴィンテージ感はなく特別なものではありませんでした。僕は、「UREI」 などのアメリカ製のコンプレッサーにみられる音が張り付いてしまうようなコンプの掛かり方に違和感を感じていて嫌だったので、様々なアウトボードがある中で「Fairchild 670」というアウトボードが暖かく自然に掛かるコンプ/リミッターということに気がついたとき、これはすごいと魅せられ興味を持つようになりました。「Fairchild 670」もアメリカ製じゃないかと思うかもしれないですが、記載されているのは、“MADE IN USA”ではなく、“MADE IN LONG ISLAND”なんです。

「Fairchild 670」は、タイムコンスタント設定によってかなり肌触りが変わります。「Fairchild 670」のサウンドには、ビートルズで聴けるような、シンバルにあたって一瞬消えてからゴオーっと返ってくるガッツリとしたイメージがあるかもしれませんが、それはタイムコンスタントの調整で起きる効果で普通に掛かって戻るように使うと全然コンプが掛かってないように自然に掛かります。例えば音楽を聞いて“このボーカルは「1176」のコンプが掛かっているね”、と分かる瞬間はたくさんありますけど、「Fairchild 670」で抑えられたボーカルは誰にも気づかれない。“「Fairchild 670」を使っているね”ということが起きないんです。この自然さが「Fairchild 670」の一番の良さだと思っていますし、すごく気に入っているところです。





──「Fairchild 670」をリズムやベースに使うことはありますか?

もちろんドラム、ベースに使うと色付けに使えます。「Fairchild 670」には、アタックのコントロールがないので音が入るレベルとスレッショルドの具合で掛かり方が決まります。キックのアタックの掛かり具合でエフェクト的にも掛かって、それこそビートルズで聴けるようなサウンドにもなります。タイムコンスタント1番では、スレッショルドで叩かれたものが速く戻ろうとする。行こうとするものと戻ろうとするものの間で歪みが起きるんですが、それを上手く使うと歪みというよりガッツのあるサウンドとして表現できます。波形で見ると潰れているんですが歪んでいるようには聞こえない。特にアナログの歪みというものは気にならないんです。歪んでいるけど気持ちがよくて、そこが今でもアナログが重宝されて使われているところですね。ただ「Fairchild 670」には、アタック設定がないので個体によってはアタックの強い楽器に使いづらいものと、掛けても大丈夫なものがあるんです。

僕は、細野晴臣さんの仕事がエンジニアのデビューなのですが、細野さんも一台、「Fairchild 670」を所有されていました。その個体は「アルファレコード」の「Fairchild 670」と特徴は変わらないんですが掛かり方が全然違ったんです。細野さんの「Fairchild 670」は、ベースドラムにすごく良くて、ペチペチした音にならずストンと置いたような、60〜70年代のレコードで聴けるような音になる。コンプの掛かり方を言葉で表現するのは難しいですが、あえて言うとニーの掛かり方がおそらく違う。ある程度行ってからスコンと掛かるものもあれば、最初からガツンと掛かるものもあって、どれも掛かってからの音色は変わらないんですが掛かり方は個体によってかなり違いがあります。それぞれの個体が持つトランスの影響なのか、はたまた真空管なのかはわからないですが、かなり個体差のある機器なのでとりあえず左右バランスが取れることはまず無く、ほとんどの個体はトータルコンプに使うことはできません。またベースドラムに合うようなサウンドの個体はキャラクタ的にトータルでは使いづらかったりもします。僕の持っている「Fairchild 670」では絶対に細野さんの「Fairchild 670」のような音にはならないんです。

僕の「Fairchild 670」は、ロンドンの「Air Studios」のメンテナンスをやっていたヘンリーという人から買ったものです。彼に様々な個体を探してもらって、この「Fairchild 670」はどう?あの「Fairchild 670」はどう?と何度も持ってきてもらいました。僕はロンドンにいた時代があって、その頃に「Abbey Road Studios」や「Air Studios」にある「Fairchild 670」を使ったことがありました。これらの「Fairchild 670」はやはりメンテがしっかり行き届いていてとてもよかった。「Fairchild 670」は、メンテされているかどうかが本当によくわかる機材で670であればなんでも良いというわけではないんです。「アルファレコード」、細野さん、「Abbey Road Studios」、「Air Studios」の「Fairchild 670」の感触と比較しながら、7台目でやっとこの個体に巡り合って、こんな素晴らしい「Fairchild 670」はない!と速攻で買ったんです。それが86〜87年のことなんですね。左右のバラツキがひどいもの、ニーがキツくて掛かり方がえぐいものが多いんですが、この「Fairchild 670」はステレオも揃っていてとても自然に掛かるんです。





──その経験の中において、AT-101にどのような印象を持ちましたか?

「Fairchild 670」には個体差があるので、「Analoguetube AT-101」が8台目の「Fairchild 670」であったとしても何も疑わない。というより“うわあ、この「Fairchild 670」いいな、買おうかな!”というレベルの出来です。新しい「Fairchild 670」であることの違和感どころか、僕の「Fairchild 670」の使い方と全く同じく扱えるので、もうひとつの色を持つ「Fairchild 670」として普通に使えます。というか欲しい。(笑) 「AT-101」は、ステレオが揃っていて「Fairchild 670」の暖かく自然に掛かるコンプ/リミッターという部分がすごくしっかりできていて、僕の「Fairchild 670」と同じようにとても自然に掛かります。矢野顕子さんのソロアルバム、「ふたりぼっちで行こう」の「Smile」(矢野顕子&平井堅)と「あなたとわたし」(矢野顕子&前川清)のボーカルには「AT-101」を使っているんですよ。


──ボーカルレコーディング時のタイムコンスタント設定はどうしていますか?

「Fairchild 670」、「AT-101」どちらであってもボーカルレコーディングでは、ほぼ2番か3番ですね。ここは変わることはないんです。テンポの関係でもない。トータルで使う際は、1番を使うことが多く、稀に5番のことがあるくらい。「AT-101」にはステレオ・リンクがありますが、「Fairchild 670」には無い機能なのでトータルで使うときは基本デュアル・モノ・モードで使います。トータルで使う際には“LAT/VERTモード(Mid/Sideモード)”を選べるところが「Fairchild 670」の特徴のひとつです。(「AT-101」は、“LAT/VERTファンクション・オプション”にて搭載可能)このモードにすると3dB下がってL側がバーティカル、R側がラテラルになります。ミックスで歌が弱いなというときに左右に広がったものだけを抑えることで、センターの歌を強くすることができます。これは本当によい機能なんですが、このモードこそLRが揃っている「Fairchild 670」じゃないと使えないんですよ。





──他にはどのようなアウトボードを持ち歩いていますか?

ミックスには「Fairchild 670」と80年代の西ドイツ製「Quantec」のデジタル・リバーブだけですね。僕はドカーンと機材を持ち歩くのが嫌なのでもともと機材をたくさん積むタイプではないんです。「Fairchild 670」以外にも「Pultec」の EQや、「RCA」のモノラル・コンプなどもよく使っていましたけど、その大きさに対してモノラル仕様ということやソースに対して相性もあるので、頻度のことを考えると自分で買うレベルのものじゃない。それで最後に選んで自分で買ったのが「Fairchild 670」なんです。30年以上使っている相方ですが、ほぼ壊れたことがありません。購入した初期にハムが乗ってコンデンサーを変えることをしましたが、それ以降は、豆電球が切れて交換したことと整流管を交換したことくらい。どうしてもLIVEで「Fairchild 670」のサウンドがほしいと高橋幸宏さん、槇原敬之さんのツアーにも持っていったこともありましたが、それでも全然大丈夫でした。50年代の設計というのは本当にすごいんですよ。


──「Fairchild 670」の設定はどのように保存されていますか?

「Fairchild 670」の設定状態をデジカメで撮ってBluetoothでMacに飛ぶようにしています。その写真をPro Toolsのセッションファイルの中に入れておくんですよ。(笑)アウトボードは670だけなので設定をリコールするのに10秒もかかりません。
「Pro Tools」は、90年代の「Pro Tools 24Mix」以前から使っているのでもう30年近くになります。今は「Fairchild 670」のエミュレーション・プラグインも色々あるので、プラグインで完結することをチャレンジした時期もありました。けれどもミックスがうまくいかなかったとき、試しに改めて「Fairchild 670」を出してインサートしたとき、なんだ、この音は!となって泣きそうになったことがありました。プラグインとは全く異なる落ち着きのよい音になるんです。“この音を忘れるなよ”と言われているような気がしたんですよね。





──どのようなところに違いがあると感じていますか?

なぜエミュレーションが実機について来ないのかはわりませんが、なんとなくアタックなんだろうと感じています。「Fairchild 670」系のプラグイン自体がえぐいキャラクタの個体をモデリングしてたりすることも理由のひとつだと思いますが、独特のアタックの遅い感じがデジタルでは出なくて、アタックが遅いとパチっていうんです。立ち上がってくる音が何か遅い。テンポの遅い曲ではエミュレーションでもまあまあ良いんですけど、速い曲に関してはスピード感が無くなる。でも実機はしっかり付いてきてテンポ感に影響されないんです。

アナログ機材が持つ“無駄”というのは、ある種、奇跡的にできていて、アナログコンソールの時代からやっているので、その“無駄”が、音楽に重要であることはわかって使っています。エンジニアがコンプ/リミッターを選ぶことは、ギタリストがこの曲にはこのギター、あの曲にはあのギターと選んでいることと同じだと思っていて、結局のところ、肌に合うか、合わないかしかない。僕は「Fairchild 670」を掛けたいから掛けているんですが、自分イコール「Fairchild 670」ではないので、中には「Fairchild 670」を使っていない曲もあります。でも30年経った今でも「Fairchild 670」を使いたいという曲は本当にたくさんあるんですよ。



飯尾芳史: http://intenzio.co.jp/artists_crew/iio?f=1

取材協力:モウリアートワークスタジオ: http://mouri-aw.co.jp/


矢野顕子 「ふたりぼっちでいこう」